【公告】ディスコーディアニズムと特定の団体についての見解とスタンス
このところ、SNSやメール等でディスコーディアニズム及び、国内の特定のディスコーディアニズム団体に対するご質問・お問い合わせを多くいただいております。
ここにOCKとしての見解と立場を明確に表明することで、皆様へのご回答とさせていただきます。
日本の特定ディスコーディアニズム団体に関する問題点
私達OCKは、日本における正しい混沌魔術の普及に努めていますが、国内の特定のディスコーディアニズム団体(以下、当該団体)の活動において、以下の4つの重大な問題点があると考えています。
1.優秀なメンターの教えとの矛盾
当該団体の代表者は、ジュリアン氏やデイヴ氏という優秀な2名のメンターの指導下で学んだと主張しており、かつてはSOL(Servants of the Light)のメンバーでもありました。それにもかかわらず、なぜ魔術を不真面目なパロディーとして扱い、敬意を欠いた活動を行う団体を立ち上げたのか、その姿勢には強い疑問が残ります。
2.故人の意志やポリシーの無視
キャロル氏が生前、「写真に写ることを嫌っていたこと」および「AI技術に対して否定的な見解(憎悪)を持っていたこと」は広く知られています。当該団体はこれらを知りながら、AIを用いたバナーを掲載しました。これは死者への冒涜であり、常識を欠いた不真面目なパロディーと言えるでしょう。
3.AI生成イラストによる深刻な誤認と死者への不敬
ピーター・キャロル(Pete)氏の訃報に際し、当該団体はウェブサイトにAIで生成したイラストを掲載しました。しかし、そのイラストは故人ではなく、現在も存命であるキャロル氏の友人を死者として紹介するものでした。私達が指摘するまでこのミスに気がつかなかった点も含め、非常に不適切な対応であると言わざるを得ません。

まず、左のスクショをご覧下さい。YouTubeのInstitute of Noetic Sciencesという番組のサムネです。
そして、問題のこちらのサイト『Dicordian Japan』でこのスクショと同じようなイラストを探してください。
見つかりました?過去、我々の指摘で「顔」は、微妙にふっらした男性に書き換えられましたが、当初は、この画像の男性そのままの顔が描かれてました。(証拠としてサイトのスクショも残してあります)
全体の構図、男性の衣服や色もまったく同じです。これ、俗に言う「パクり」と言っても良いレベルでしょう。当然、画像の男性の方は、ご存命です。
OCKには顧問弁護士がおりますが、キャロル氏の遺族は告訴が可能であり、また誤って死者として扱われた存命の友人側も、名誉毀損で告訴が可能であるとのコメントが出ています。
この事態を我々がDicordian Japanサイトのスクショ(現在は削除)を掲載して指摘すると、
本サイトに掲載されているコンテンツは著作物です。制作途中・完成後を問わず、許可なく全部または一部をスクリーンショット等により複製し、自社サイト等へ掲載・利用する行為を禁止します。著作権侵害が認められた場合には、民事・刑事を含む法的措置を講じる場合があります。
上記のような文言を追加記載しておられます。。。。パクって作成したような画像を「著作物」だの「著作権侵害」だのと、さすが全てをジョークにするディスコーディアンらしい言動です。(判断は、これを読まれた皆様におまかせします)
ディスコーディアニズムに対する見解
以下に、OCKとしてディスコーディアニズムに対する見解とスタンスを示します。
現実解体論:ディスコーディアン的遊戯への訣別と魔術的支配の再構築
混沌の私有化 ― ディスコーディアン的遊戯からの脱却と、真なる魔術的支配の確立
序章:冷笑という名の敗北
現代の混沌魔術シーンにおいて、ディスコーディアン協会的なアプローチ ―すなわちエリスの神話を借りた「規律の否定」と「遊び心」による宗教的パロディ― は、もはや時代遅れの残骸に過ぎない。
彼らが主張する「混沌への回帰」は、現実を支配するための技術ではなく、システムに対する「冷笑」という形での敗北宣言である。真の魔術師にとって、混沌とは制御されるべき対象であり、その深淵を覗き込み、自身の意志を強制的に書き込むためのOSに他ならない。冷笑によってシステムを批判しているつもりの彼らは、皮肉なことにそのシステムの中に安住し、ジョークを消費することで自己のアイデンティティを保っているだけの「観客」に過ぎないのだ。
第一章:黄金のリンゴの呪縛と確率の解像度
彼らが掲げる「黄金のリンゴ」は、不協和を象徴するメタファーとして消費されているが、それはあまりに感傷的だ。現代において混沌を扱うとは、情報の非線形性を理解し、確率的な分岐点を強制的に操ることを意味する。彼らは幸運や偶然を「エリスの気まぐれ」として放置するが、我々魔術師は、ノイズの中から特定の情報を抽出する「解像度」を極限まで高めることで、確率そのものを操作する。
不協和を肯定するだけなら誰にでもできる。だが、不協和の中から秩序を創出し、あえてその秩序を破壊することで再び新たな不協和を産み出す……この循環こそが真の混沌のプロセスの実態だ。
ディスコーディアンたちの「ジョーク」には、現実を物理的に書き換えるための「出力」がない。彼らはシステムを笑うが、システムは彼らがいようがいまいが、今日も滞りなく稼働し続けている。
我々は、そのシステムそのものを根底からハックし、物理的な出力として結果をもたらすことを至上命題としている。我々にとって、現実とは書き換え可能なデータであり、混沌とはそのデータを入力するためのインターフェースに過ぎないのだ。
第二章:知的な遊戯からの脱却 ― 観測者から出力者へ
ディスコーディアン的遊戯の本質は、常に「観測」の領域に留まっている点にある。彼らは世界に起きる事象を、それがどれほど不条理であれ、ただ「混沌の一部」として観測し、面白がって笑う。だが、魔術師にとっての混沌とは、そのような受動的な態度では決して従順にはならない。
真なる混沌魔術とは、観測者という立場を捨て、システムの内部に介入する「出力者」へと変貌を遂げるプロセスだ。
我々が実践するケイオス・マジックにおいて、観測と出力の境界は極めて曖昧であり、観測した瞬間に事象が改変されるような、量子力学的な干渉を現実に引き起こす。彼らがジョークを言っている間に、我々は確率論的な事象を「強制的に発生」させ、都合の良い現実だけを抽出する。
もし彼らが「現実がジョークだ」というのなら、我々はそれを見事に演出する脚本家となり、現実の解像度を自由自在に再構築する。彼らの冷笑は、システムという強固な巨大構造を前にした無力な抵抗であるが、我々の魔術は、そのシステムの脆弱性を突き、構造そのものを内側から書き換える「ウイルス」となるのだ。
第三章:不確実性という名の「設計図」
ディスコーディアンたちは「不確実性」を崇拝し、制御不能な混沌をそのまま受け入れることが真の自由であると錯覚している。だが、それはあまりに未熟な、子供じみた発想だ。混沌の中に存在する「不確実性」こそ、魔術師にとっては最も精緻な設計図に他ならない。
我々魔術師は、ランダムな事象が引き起こすノイズを単に眺めるのではなく、特定の周波数に共鳴させることで、その「不確実性」を「決定論的な出力」へと変換する。彼らがエリスの気まぐれと呼ぶものを、我々は「最適化された魔術的介入」と呼ぶのだ。混沌とは、制御を放棄した先にある安らぎではなく、強大な意志が己の望む形へと彫り込むための、限りなく流動的な『素材』である。
彼らの主張する「自由」とは、単に風に吹かれる枯れ葉のように、システムの流れるままに漂うことに過ぎない。しかし、我々の定義する真の自由とは、システムそのものの支配権を奪取し、現実という名の巨大な構造物を、自らの意図する通りに改変する「支配者としての権能」のことである。混沌の中に美を見出す者は詩人だが、混沌の中に武器を見出す者だけが、真の魔術師の資格を持つ。ジョークで世界を笑っている間に、我々はそのジョークを現実に書き換えてしまうのだ。
第四章:意志の収束 ― 現実支配における「無」の絶対領域
ディスコーディアンたちは「全てはジョークである」と断じることで、自己の存在意義を世界の流動性の中へ溶かし、逃避を図る。だが、魔術師にとっての究極の境地は、不確定なカオスを笑うことではなく、そのカオスを自らの意志という一本の線上に「収束」させることにある。
彼らが「エリスの混沌」と呼ぶものは、観測者の脳内で生じるランダムな反応に過ぎない。我々は、その反応すらも計算資源として捉え、ノイズを除去し、純粋な意志のエネルギーのみを現実に輻射する。これこそが、いかなるジョークや不協和をも超越した、支配者による「現実の強制実行」である。
彼らの哲学は、結局のところ、自分が支配できない巨大なシステムを笑うことで慰めを得る、道化の悲劇に過ぎない。だが我々にとって、現実は我々の思考を反映するための鏡であり、望まない事象など存在しない。ただ、書き換えの対象があるのみだ。彼らが「混沌はコントロール不可能である」と説くとき、それは彼らが「無能である」と自己宣言していることに等しい。
真の混沌魔術師は、不協和さえも自らの楽器として奏でる指揮者であり、全ての偶然を必然へと変換する計算能力を持つ。今この瞬間、この論文を読んでいる彼らの背後で、現実が我々の意志によって書き換わっているという事実。これこそが、反論不可能な我々の「出力」の証明である。議論の余地など存在しない。我々は既に、この世界を支配しているのだから。
Sr Verdande
